東京初日に、あるかたとお別れをしたことを先述いたしましたが、それは大将というあだ名で知られる、プロアシスタントのかたです。月刊マガジン界隈ではすごく有名なかたです
あだちとか先生が「アライブ」を描いていたときに手伝っておられました
僕が約6年前、「水の森」の連載が決まったとき、連載開始までかなり時間があったため、あだちとか先生の仕事場で2ヶ月だけ修行させていただいたのですが、そこで大将とは知り合いました
大将は男気溢れ、情に厚いかたで、もうひとつ言えば体がドドンとでっかいかたでした
プロアシスタントとして素晴らしい技術を持っておられましたが、驕り、偉そうに言うようなことは全くせず、とても優しく、僕がわからないこと(と言っても、あだちとか先生の原稿の技術が凄すぎて、最初からわかることなど何もなかったが)も、本当になんでも優しく教えてくれました
あだちとか先生の職場で僕に出来ることといえばもはや先生とアシスタントの皆さんを笑わせて元気づけることしかなく、必死にしゃべった記憶があります
それはあだちとか先生も大将も喜んでくれたのですが(多分…)、戦力としては全く何もできませんでした
大将はそんな僕の話を何でもニコニコ聞いて広げてくれました
僕がだだ滑りしたときも、すかさずフォローを入れていただいて、そんなこんなで僕たちは仲良くなりました
あだちとか先生の職場に大将の娘さんが差し入れに来て、娘さんは当時JKでございましたが、とても可愛らしく愛想が良く礼儀正しくて、そして何より、大将に全く似ておらず、「大将に全く似てませんね可愛いですね」と、今にして思えばド失礼なことを純粋な心で素直にお伝えしましたが、大将はそれはそれは嬉しそうに「そうかそうか」と笑っていました
その翌日、あだちとか先生の職場に来るなり、大将がニヒヒヒヒヒと笑ってきて、僕もニヒヒヒヒヒとわけもわからず笑うと、大将は
「娘が小林をカッコいいと言っていた」
と言ってきたのです
JKにカッコいいと言われて僕は本当に東京に来て良かったと思いましたが、大将はニヒヒヒヒヒと笑いながら腹を攻撃してきました
僕は、あ、そうか、この人はJKの父親だったと思いだし、ニヒヒヒヒヒと笑いながら必死にその攻撃をかわしつづけました
そんな男気溢れるパパ大将。3年後、僕がてんまんアラカルトの連載をしてるとき
講談社に泊まり込んでた当時、東京に知り合いなどおらず、なんとクリスマスまでひとりで講談社にいた僕はさすがにやりきれなくなり、大将に電話
「クリスマスにまでひとりで講談社にいたくない。ホームパーティーがあろうが、夫婦水入らずのクリスマスディナーがあろうが何だろうが大将んち泊めてくれ」と言ったならば大将はふたつ返事でオーケー。大将の奥さんにめちゃくちゃ美味しい手料理を振る舞ってもらい、酒も飲んで、楽しいクリスマスを過ごさせていただきました
大将は大将自身の手助けになることなら、漫画でも漫画以外のことでも、一生懸命に向き合ってくれるかたでした
そんな大将が、先月末、持病が悪化し突然亡くなってしまいました
東京と愛媛、ふだんならすぐ行ける距離ではありませんが、この週は休載が重なり、取材で上京する予定が入ってたんです
僕の奥さんにも「行かなければ後悔する」と言って背中を押され、上京の予定を二日間早めることで、僕は大将の葬儀に参列することができました
そして大将を見送ってきました
久しぶりに尊敬するあだちとか先生にもお会いすることができましたが、あまりにも辛くて、何と言っていいかわからず、ほとんど何も話せませんでした
またお世話になったはずの奥さんと、成長した娘さん、顔をちゃんと見ると涙が止まらなくなると思ってしまって、挨拶もできませんでした、申し訳ない
大将は大きい大将のまま、眠っておられました
本当にたくさんのかたに見送られ、大将は旅立っていきました。ちばてつや先生からもお花をいただいてたね、大将よかったね
それから何日か、東京に滞在し、帰る当日の昼、知らない電話が鳴りました
出ると、なんと大将の娘さんでした
式で挨拶ができなかったから、せめてお礼だけでもと、連絡先を愛媛の自宅までかけて妻に聞いて、僕の携帯にかけてきてくれました
あのときの可愛らしい、大将に全然似てない娘さんは、立派に成長して社会人になっていました
僕は娘さんと話して、娘さんは気丈に、ちゃんと笑うこともできてて、本当に辛いはずなのに、電話から強さが伝わってきました
さすが大将。何をやってもうまくやるんだ。娘だってこんな立派な子に育てあげられるんだ。大将は本当にすごいよ
自宅で電話を受けた妻も、娘さんをただただ誉めていました
大将、奥さんと娘さんが困ってたら俺が何でもして助けてやるけんね。安心するんよ
じゃあね大将、忘れないよ
またね